日野停車場(旧駅)の改築に原宿駅の古材が使われた?

日野停車場全景 1921年頃
日野停車場にて 1930年頃
日野停車場にて 1937年
定期券を持つ人たち 1937年 日野停車場前

上段の写真の左側は「第一師団機動演習 撃戦ノ後日野町停車場前」と題した絵葉書で、大正10(1921)年頃に撮影された日野停車場全景。右側は昭和5(1930)年頃に日野停車場構内で撮影された1枚です。下段の写真は両方とも昭和12(1937)年の6月に新駅移転を前に、記念写真として職員と定期券をもつ乗客それぞれを撮ったものです。この日野停車場が大正10(1921)年11月17日から20日にかけて、東京および横浜の二都市を含んだ武相地域(現在の埼玉、東京、神奈川の大部分)を中心に行われた陸軍特別大演習に先駆け、摂政の皇太子(後の昭和天皇)を迎えるにあたり駅舎の改築が行われ、なんと初代原宿駅から運びこまれた古材が利用されたといいます。
 
これは『日野の歴史と文化』第50号(日野史談会 平成12(2000)年3月10日発行)に掲載された「日野駅110周年記念によせて」という日野史談会会長故田中紀子(としこ)さんの論考から推察されるものです。ただ、そのなかで田中さんは「現在の日野駅舎は原宿の古材を活用したことが分かりました」と、初代原宿駅の古材が昭和12(1937)年6月開設の現日野駅に使われたとも受け取れる表現をされていますが、論考中に紹介されている佐藤春近氏の手紙では「日野駅の旧駅舎については、大正10年の秋、特別大演習が三多摩の地にあり、これに先立って駅舎を改築することになり原宿駅の古材が運ばれて参りました。当時の駅長は北村忍という人で、私より一級上の重耐、弟に武次君がいて駅の広場で遊んで、またケンカもしました。北村駅長は駅舎の出来上がる前に退転して、代わって江坂五郎という駅長が参り、当時助役だった私の父と八坂神社に日参して無事天皇陛下御先導の大役を果たしたということです。(ちなみに佐藤氏は鉄道員で明治43年頃の生まれで、紀子氏の夫田中与四郎氏の小学校の同級生であった)」と記していることから、現在の新駅のことではなく、現在地から豊田駅寄りに300mほど行ったところにあった日野停車場(旧駅)ではないでしょうか。
佐藤氏が原宿駅云々に触れているのはあきらかに日野停車場での経緯であり、現在の日野駅舎を言っているのではないでしょう。それを田中さんは現在の駅舎ととらえてしまったのではないでしょうか。実は日野宿発見隊で収集した写真の中に、新駅ができた昭和12年に日野停車場前で撮影された「駅職員」や「定期券を使っている利用者」の記念写真があり、また同時期に新駅前で同じように職員と利用者の記念写真が撮られています。鉄道を運行中にあえて日野停車場の木材を新駅建設に使うことは考えられません。『東改彙報』第1巻第5号(東京改良事務所 昭和11年10月)のなかでは明記されてはいないものの、同時期にできた豊田駅と同様に新築されたものと解するのが自然ではないでしょうか。大正10年の日野停車場の改築に際し原宿駅(?)の古材が利用されたということは佐藤氏の手紙からも推測されるものの、残念ながらそれを裏付ける公式な文書等を確認することは現時点ではできていません。
さて、皆さんはどのように思われますか。ご意見などありましたら日野宿発見隊事務局までご一報ください。

なお、これと付随して、佐藤氏は日野停車場の広場にあったモミの木(日野宿東光寺の立川民蔵氏により寄贈されたもの)が、大正10年に行われた陸軍特別大演習の際に鉄道関係者の目にとまり、原宿駅の宮廷ホーム付近に移設され「柏手もみ」として現存するという話も紹介しています。

<11月26日追加情報>
『レイル THE Rail』№117(2021年1月 p.34)に「原宿駅の謎 高輪海中築堤の発掘」のなかで、「日野駅先代駅舎は原宿駅の古材?」というタイトルで、上記の佐藤春近氏の手紙の文章を引用した日野停車場改築関係の記述があります。